Intermezzo - Cahier

はてなダイアリから参りました(

責任の取り方、報道のあり方

mixiニュースで取り上げられていたが、社会的な問題であり、Openなはてなで書こうと思う。記事も時事通信で拾ってきた。
新たに遅刻やオーバーラン判明=死亡の高見運転士−JR脱線(時事通信)

107人が死亡した福知山線脱線事故で、JR西日本は30日、死亡した高見隆二郎運転士=当時(23)=が判明分以外に、遅刻で注意を受けたほか、オーバーランなどのミスを3件起こしていたことを明らかにした。同日までの遺族らへの説明会でも報告した。

阿呆かと思う。
確かに死亡した運転士にも問題があっただろうけれど、事故の本当の理由は運転士の個人的資質ではないし、本来の責任者である会社がそう帰着させるべきではない。遅刻は鉄道員としてはいかがなものかと思うが、オーバーランなど些細な問題であり、このタイミングで公開するような事ではない。
責任所在の会社が故人である個人に責任をなすりつけようとし続けている、この風潮はいかがなものかと。
そしてこの記事じたい、時事通信の報道方針じたいにも疑義を感じざるを得ない。
西日本会社が今まで明らかでなかった運転士のミス(基本的に超些細。事の本質とは無関係)を明らかにした。
だからなんなんだ?
報道も運転士だけの責任にしたいのか。こんなひどい仕打ちを西日本会社がしてますよと公にしたいのか。意味がわからない。方向性としては、衆愚が「やはり運転士が悪かった」と思うようになるように仕向ける報道だと思うのだが、まったくもっていかがなものか。事件に関して間違った方向への憎悪を呼び戻させるだけの、非生産的な報道である。報道の社会的責任をまだ自認しているのであれば、猛省を促したい。


私は死人を辱めるべきでないと云う考え方には全面的には賛同しない。死んでも悪人は悪人だ。七代先までも呪われるべき悪人も多多いると思っている。
だが、この運転士。可能性の話としては善人ではなかったかも知れない、鉄道員として適任でなかったのかも知れないが、やはり被害者の一人なのではないだろうか。だって、この運転士を乗務させるかどうかの責任は会社にあるのだから。そして、この運転士にもきっと遺族がいるのであろう。乗客の被害者や、その遺族の方々とは、確かに意味合いは違うだろうけれど。
また、乗客の被害者や、その遺族の方々だって、このような報道がされて、どう思うだろうか? 短絡的に「運転士憎し」と思い出すだけか、何の意味もないと虚無感に襲われるだけであろう。


さらに気になるのはこの会社の社員たちです。彼らもまた、被害者なわけであります。
私が尊敬していた、もう消滅してしまった会社の社長が以下の内容のような事を云っていました。
『会社は誰のものだと思いますか? 顧客、株主、そして社員のものです。これらは順位付けができる性質のものではなく、その価値は等しくあるべきであるが、状況によりバランスはとらなくてはならない。そのバランスをとるのが経営陣の仕事であり、責任です』
私はもっと、彼と仕事をしたかったです。ちゃんと。
さて、社員の皆さん、あなたの会社は、あなたたちのものですか?
会社は、社員の事を「組合が強くて……」とかガタガタ云ってお荷物扱いしていませんか?
その点は、ある意味では他人事なのですが、大変気になります。
功利的に「公共交通機関の安全のため」気になるといってもいいですが、それはやや欺瞞であり偽善であります。私の場合は、もっと個人的な理由で気になるのですが、それは余分な話ですね。